まちこしの人間観察BLOG

まちこしの日々の対人記録。

ホピ族とがん細胞の話

まちこしです。

昨日の講座にいってまた別に感じたことがあったので書き留めておきます。

昨日の会合で登壇されていた中にセドナ山にずっと通われている女性がおりまして、
その女性がホピ族(ネィティブアメリカンの一部族)の人たちも交流があるらしく、ホピ族の彼らがいうには
私たちの人生は私たちだけのものではない、半分は自分たちの先祖が築き上げてくれたもの、半分は7代先までの私たちの子孫のためのものだ。だから私たちは未来の子供のために色々なものを残さないといけない。
と熱を持って語るのですが、
そのホピ族でさえも、最近はそういうマインドをもてなかったり自分の事しか考えられない人が増えたりと、危機的だとその女性に嘆くのだそうです。
かれらの話ではホピ族で起きる事は世界の縮図なのだというのです。
ここがもし終わる時は世界が終わりをむかえるのだと。


自然と共に行き、その大きな循環の中に人もいるという死生観はネイティブインディアンだけでなく、日本の縄文人しかり、アイヌイヌイットケルト文化にも通づるものがあります。

ところでこの日の別の登壇者で哲学やメンター論などの研究をされている
吉川宗男先生という方がいらしてこれからの世の中は相対するものをどう混ぜ合わせて成立させていくか、西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』という考えから始まり、裏と表をメビウスの輪にたとえてお話をされていました。
個人的に日本人はどの国の人よりもこのような異質の文化を「和える」力がすごく高いと思っています。

ちなみにまちこしは人を自分の中で評価する軸というのが「顔つきと雰囲気と勘」だけなのですがあながちあなどれないです。話が立派でも顔がそれを語ってない人っているんです。顔がかっこいいとか、そういうことでなく、顔に滲み出る奥行きや柔らかさ、みたいなものです。空気というか。
この方がどんな方かは全然存じ上げなかったのですが、私のセンサー的には信頼できる人だと勝手に思って、お話を聞いたあと気になって検索したらこんなページがありました。


最後の方にがん細胞のくだりがあります(抜粋)↓

最近私は癌細胞に興味を持った。それは人間の欲望のように自分のテリトリーを拡大し続け最後に母体と共に死を迎える。資源開発や科学文明の発達は地球の死を意味することかもしれない。
しかし危機をチャンスとして捉えることにより、エコロジー生態学)が生まれた。全ては繋がっているのである。 それが「メビウスの輪」の意味するところである。

この文を読んで私は金のガチョウの卵を思い出しました。
ご存知ない方はこんなお話です。

ガチョウと黄金の卵 - Wikipedia



よくビジネスのたとえ話でも出てくるお話ですが、個人の利益というだけではなくて人間関係でも地球の資源に置き換えて考えてもあてはまる話です。


私の好きな縄文時代ですが、1万3千年以上続いた背景には人口の問題も大きく関係しており、この頃は自然の資源と人間の数のバランスもちょうどよかったに違いありません。その後、稲作が入り、食べ物を貯蓄し、余剰物ができ、所有という概念が生まれました。

この頃から、人は自分の社会にこもりがちになり人間の社会の中だけの事を考えるようになり始めたのではないでしょうか。その頃はせいぜい農産物やお互いの持つ土地の争いですが、現代にいたっては宇宙の支配にまで及んでいますよね。

AI研究が盛んになり倫理の問題も取り沙汰されていますが、人の欲をどのようにコントロールしていくのか、コントロールできない存在があることが人間を人間らしくしているとも思うのですが、私は偶然や予測できない事がない世界ってすごく魅力がないなと個人的には思ってしまうのですがみなさんがいかがでしょう?

なんか話広げすぎちゃった、、、、。

また何かおもいついたら書きます。

まちこし


自分にもってないものを他人で埋めようとする人

まちこしです。

今日はとあるイベント?会合?に出てきました。
会合自体にもいろいろ思うことがあったのですが、それはイベントあるあるなので
また今度にします。

そのイベントの後半で遭遇した状況に、自分が考えすぎなのかなと思ったのですがどこか違和感を捨て切れなかったのでここで書きます。


顔を出した団体の発起人の中にアイヌ協会の会長をしている浦上さんという長老(エカシ)という方がいらしていました。民族衣装も着ておられて、まさしく長老という感じでした。長い髭を蓄えていて、落ち着いていて笑顔も朗らかな方で長老としての威厳やおおらかさも感じました。

ある程度人数の集まる会合、セミナー、講座にありがちな情景といえば情景なのですが、私がいつも見ていてモヤモヤするのは全然ファンでもなければよく知ってもいないのに、当日の、なんとなくすごい人なんでしょ?この人?みたいなノリでやたらと一緒に写真とか撮りたがる人。。。。

今回の場合はこの長老さんがすごく人気で、、、たぶんビジュアル的にも迫力があったせいでもあるのですが、あんまり話したことも会ったこともない人に突然話しかけられて戸惑いつつもニコニコして写真をとっていましたが、私にはどうしても上野動物園のパンダのような扱いをされているように見えてちょっといい気分はしませんでした。私の勝手な印象なのでご本人がどう思ってたかはわかりませんが、、、。


単にお話を聞いていて感動したからそのノリで嬉しくて撮ったと言われたら別にそれはそれでいい気もするのですが、なんかこんな気分、別の場所で味わったことあるなぁと思い返すと、
それは先日トランスジェンダーの友人が、その属性をSNSで開示しているとダイレクトメッセージでお友達になりたいという旨で、実際会ってみて仲良くなると単純に「トランスジェンダー」という珍しい属性の友人がほしかったというだけのものだった、というものです。

同じように私の場合は美術大学に入学したての頃に他大のコミュニティに遊びに行った時にそこの大学の女の子が寄ってきて、それからいろんな場所に遊びに誘われ、その都度他の子に名前よりも先に「この子◯◯大学でデザイン勉強してるの。」という紹介をされることに違和感を覚えたことが蘇りました。

それ以外の属性でもこういう事はたくさんあるんじゃないでしょうか。
人がやらないような事や珍しい活動、専門性の高い職業、なかなか経験できない事をしている人、とかく色々あるかと思いますが、
いずれのケースも人を中身ではなくて表面の箱で評価しているもので、だいたいそういう箱目的で近づいてきた人とは関係は長続きしませんよね。

今日の場合は、単純にもともとその長老さんのファンの方もいたのかもしれないし、私自身も大好きなミュージシャンのライブの後に一緒に記念撮影などはしたことはあります。でも何かそういうのとはちょっと違うような感覚があって、さらにいうと、この撮影した写真をFBやSNSで投稿してその人のステータスや肩書きを借りて自分を盛るような文章を書いてる人も見かけたことがあり、私の違和感や嫌悪感はそういうことを目撃したせいもある気がします。

テーマにある「自分にもってないものを他人で埋めようとする人」は言い過ぎかもしれませんが、気づかないうちにそういう事をしてしまっている事もあるだろうなという自戒もこめています。形通りの記念写真ですが、動機がどこにあるかで全く変わるなと思いますし、そういう事は相手にはすぐに伝わってしまうものなのだろうなと思います。

私も今だに自信がなくなると誰かや何かに頼りたくなったりしている自分に気づいて
いい年して心底自分は甘いなと思うこともあるし、そうやって迷惑をかけた友人もいます。でも、できる限りそうなりたくないのでそういう時こそ一人でやれるとこまでやってみようと葛藤します。

自分にないものを他人で埋めようというのは実は気づけばみんな、パートナーや恋人にそういった部分を求めているのかもしれません。
でも私の今日の違和感というのはgive&takeじゃなくて、一方的なtakeだった事によるような気がします。かつ、アイヌの長老さんという、どこか一線を超えても許されるのではないかという気持ちを引き出されそうな対象だった事がより私の違和感、嫌悪感を助長させたのでしょう。

私は人間の正義感や倫理観なんて正直、全然信じていません。
時代、環境、状況でころっと変わってしまうと思っています。
アウシュビッツを見学した時になおさらそう思いました。
そんな変わりやすい心を人間は持っているという事を忘れずにいたいです。

 

まちこし

喧嘩したときの感情の扱い方について

こんにちはー。
突然ですけど、みなさんは恋人や旦那さん、奥さんと喧嘩しますか?

私はというと、今まで付き合った人やパートナーと喧嘩した記憶がありません。
もともとめんどくさがりやなので感情をガチガチぶつけるのが得意じゃないってのもありますが、だいたい意見が食い違ったりすると分析、検証みたいな状態になります。議論をつきつめていくみたいな感じ。

いきなりなんでこんな事を今回話始めたかといいますと先日、友人からとあるメッセージがありました、、、、

ラインにて(一部脚色)

「旦那と喧嘩した」
「え?」
「傘投げられた」
「えー?!」
「自分にじゃないけどね、しかもそのあとで出てけっていったら本当に出てった」
「え?」
つづく、、、、

まぁ、私は「え」しか発音していないんですけど(⌒-⌒; )
ここまでいくまでに長い議論があったようなんですが、
よくよく旦那さんの言い分も聞いているとお互いすごいすれ違いなんです。
本当は相手の事を思いやって発してる言葉なんですが、それが相手には
責められていたり、何かを求められていたりすると取られてしまう。

だいたいそのすれ違いを発生させている主な原因は自分の中にある地雷部分です。
家族の中で培ってきた価値観や自分観みたいなもの。インナーチャイルドとも言うらしい。あとはコミュニケーション不足による思い込み。
喧嘩の要因ってだいたいこの2つな気がします。
思い込みっていうとこんな感じです↓

・きっと彼はこんな奥さんでいてほしいに違いない
・きっと私は奥さん失格だと思われているんじゃないか
・こんな弱々しい旦那なんていやだろうな
・おれって甲斐性なしって思われてるんだろうな などなど


疲れて気持ちがしぼんでいるとなんでもネガティブにとりがちかと思いますが、
どんな悪意のある言い方をされても、プラスに受け取ればそれは自分にはプラスの言葉になります。
相手の悪意はうけとらず、形そのままの良い言葉だけを受け取ってください。
プレゼントの箱は受け取らず、中身だけ受け取る感じです(笑)。
そして案外、プラスに受け取ってニコニコしていると相手も白けてそれ以上の攻撃はしなくなります。
むやみに相手の土俵にのらないって自分を守る為に大事だと私は思っていて、できるだけ売られた喧嘩はスルーしてます。聞こえないフリです。
一緒にいる人を侮辱とかされたらちょっとわからないけど、、、。

とまぁこれは相手が全然知らない失礼な相手の場合ですが、
よく知ってる場合は相手の愛情をまず信じる事なのかなぁと私は思っています。

お互い信頼して付き合っているのだから自分を最初から攻撃するつもりで言葉を発するつもりなんてない、余裕がないから言葉足らずになっていたり、オブラートに包めていないだけだろう、と思うようにしています。
まぁそれでも、傷つくときは傷つくんですけどね!(笑)
そしたら感情的にならず冷静に「今の言葉は傷ついた。」と相手に言うことにしています。しかも、「ここのこういうところが傷ついた」とか具体的に言うと、それはこういう意味で言ったとか、そういうつもりじゃなくてこういう意味だ、とか言葉の真意が見えてくるので自分の気持ちも落ち着いたりします。

人間、みな感情があるのでそれを押し殺したり、なかったように振舞うのは無理です。
どうぞ押し殺したり、まるでないように振舞うのは体に毒なのでやめてください。
でもそれをどう表現するかは選び方はたくさんある気がします。

女性は本来、感情表現が豊かな生物なので喜怒哀楽が出やすいと思うし、感情豊かに表現できること自体は良い事だと思います。でもネガティブ感情に関しては相手がいる場合にはとても厄介で負のエナジーを増幅してしまったり、結果的に自分にも良い事がないのでできる限りそれをコントロールする術を身に付けたいものです。

なんだか偉そうな口調で書いてしまいましたが、
この手の相談をなぜかよく受ける事があるので今回、ブログにしてみました。
私の場合は「怒」よりも「哀」に振り回されることの方が多いですねぇ。

ちなみに友人ですが、無事仲直りができました。よかったよかった。


まんまとハマりました。

こんにちは。
さて、だいぶ間が空きました。
読んでくれていた友人には「もう書いてないの?」と言われる始末。
書きたいネタはたくさんあったのになんで書かなかったのか考えたら、
こういう事書いていいのかなーとか、今までの雰囲気とは全然違うしなぁ、とか
そんな事もありつつ、、、。

そして、
今回のこの沈黙を自分なりに検証した結果、自分のことどんだけわかってないねんって思いでいっぱいになった。

1基本的にルールを課されたり、課したりするのが苦手

2自分でハードルあげすぎた

3そして、このブログの意味

 

1、2に関しては自覚があって、続けられないならどうすれば続けられるか?
って事を考えればいいとして、、、
3に関しては、そもそもこのブログの意味とは?
はい、これはすでに存続の危機ですね。

私が文章を書きたくなるときというのは、
・純粋に人に何かを伝えたいと思うとき
・自分で言いたい事を整理するためにとにかくアウトプットしたいとき

の2点にたいがい絞られるんですが、ほぼ実は8割は後者がしめているということに
気づき、だがしかし、自分がつくったブログのテーマがあるし、そしたらこんな内容じゃ書けないとかで結局、お誂え向きな文章を書かないと!という強迫観念からなんとなく書かなくなる。ということの繰り返し。

それはさておき、旅の事を書くにあたってとある友人が書いているブログがありまして、それはまぁ今節丁寧に順序立てて旅の記録などを書いているのです。
本当に読んでいて感心していたわけです。
そして愚かな私はそんな友人をモデルにやってみようと思ってしまったのですね。
嗚呼!なんとばかな!!

そもそも彼女はですね、夏休みの宿題を最初の2週間でやりとげる超変人なわけですよ。超優秀とも言いたいけど、私の褒め言葉的には変人。なんでも前もってできる彼女は私からしたら天上人みたいな方なんですよ。

それを真似るなんて、、、否、それよりも愚の骨頂なのは、鳥は魚になれないのに必死になって私は魚になろうとしていた、って事ですね。
他人の良いところに感心して真似るのはよいですが、そもそも性質とかってあるし、たいがい、いいなぁと思う人っていうのは自分と正反対だったりします。

なので真似するにも自分でできるようにちょっと味付けしないと今回みたいな事がおきます。で、私ったら馬鹿正直なので出来もしないようなルールやテーマをまた自分で勝手に作って勝手に沈没するわけです。

まんまといつものあかんやつにハマっておりました。
私がたいがい陥りがちな、考えすぎると書けなくなるパターンです。

なので旅の話とか過去の話は、私の得意な回想録形式で思いついたときに書こうかな。
うん、きっとそれが私にとってはいいわ。

誰も読まなくても、私が読むブログにしよう。

ポーランド・ドイツ編①『旅の初日からアウシュビッツ。。。』

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ミュンヘンでのトランジット





こんにちはー。まちこしです。
さて、つい先週末に帰ってきたばかりのポーランド・ドイツの旅。

初日は羽田発ミュンヘントランジットでクルクフに到着したのは夜中の12時ごろ。
今回の旅はベルリンがメインだったはずなんですがポーランドも近いので一足伸ばしてポーランドも観光することに。

ポーランド滞在はクラクフ3日、ワルシャワ2日。
初日はホテルについてすぐに寝て、次の日は早朝からアウシュビッツ博物館(旧アウシュビッツ強制収容所の建物がそのまま残っている)の日帰りツアーを申し込んでおりました。この正式名称はユネスコでは「ナチスドイツによるアウシュビッツ・ビルケナウ ユダヤ人絶滅強制収容所」です。「絶滅」という響きが鉛のような重さを感じさせました。

アウシュビッツ」と聞くといかにもドイツの街のように聞こえますが、もともとポーランドにあった街の名前をドイツ語発音してつけた名前なので響きがドイツっぽいんです。本当の街の名前は「Oświęcim」オフェンチィム。


ポーランドは地理的な理由で長い間、他国による分割、統合を繰り返してきた国。でも一時はヨーロッパ全土の3分の1を統治するほどの覇権をもっていた時期もありました。国が平和だった時期には国民の10パーセントがユダヤ人でした。

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ドイツ十字軍に勝利したのを記念して作られたグランヴァルト戦争の碑



イスラエルにはヤド・ヴァシェムというホロコーストの記念館がありますが、そこには犠牲者追悼の他に「正義の異邦人」といってユダヤ人迫害の中でユダヤ人をかくまったり、助けた人々を表彰し名前を刻んだ碑があるのだそう。

ヤド・ヴァシェム - Wikipedia


そのほとんどがポーランド人で、日本人は唯一、杉浦千畝の名前が刻まれています。
ナチス占領下のポーランドではユダヤ人をかくまうと家族総員死刑、食料をめぐんだりするだけでも処刑されました。

ガイドさんのドリクさんのおばあちゃんはレジスタンスに隠れて食料を渡していたのが見つかり、政治犯としてアウシュビッツで処刑されたのだと語りはじめました。

それを聞いていた横にいたドライバーさんはぼそっと、

「自分の近所に住んでいたおばあさんは食料を夜に投げ入れたのが見つかり子供と一緒に蹴飛ばされたが注意されただけでどうにか逃れた。いつもうちの近くに公園に長袖のシャツでびっこをひいてくるおじさんは腕にダビデの星の焼印があることを自分に見せ、アウシュビッツで人体実験をされていたのだと教えてくれた。」


「僕のおばあちゃんが、、」という言葉の重みが忘れられなかった。
テレビや歴史の教科書に出てくる歴史上の悲惨な出来事が急に最近起きた身内の不幸のように身近に感じた。ここでは今を生きる「私の、僕の、」から戦争が語られる。私のおばあちゃんにも昔の話をききたいと思ったのでした。

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別の博物館でみた反ユダヤのポスター


ポーランドには少しこみいって話をするとこんな話がたくさん出てくるのだとドリクさんは話してくれました。
ドイツで有名な製薬会社のシーメンスやバイエルなど、戦争の時期にたくさんのデータを残しそれが今の医薬品にも活かされていると思うと複雑な気持ちになりました。インターネットやGPSなど戦争を期に発明、発展されたものは他にもたくさんあるが、戦争があると科学が発展するというのがなんとも皮肉。どうかこれからは平和のために科学を役立ててほしい。

 

そんなリアルなポーランドの話をクラクフからアウシュビッツ博物館に向かう車内で
たくさん聞きました。移動時間は2時間程度だけど、私はガイドさんに会った時にはできるかぎりいろんな質問をするようにしています。どんな些細な質問でもそこからどんな話が聞けるかわからないし、何より自分の知っていた世界がせまかったんだなと実感できます。

 

あかん、、、、行きの2時間だけでこの量、、、、。
さて次はいよいよアウシュビッツ博物館に到着でございます。
博物館唯一人の日本人ガイドの中谷さんが登場します。


このペースで一体いつおわるのだろうか、、わたしのブログ旅路、、、。


まちこし

 

そのまえに、私が今まで旅した場所は、、、


ちょっとこれから旅の話をちょこちょこしていこうと思います。
だいたい年に2、3回くらい海外や国内に旅行にいくのですが、
それが実は10年分蓄積しているので
かなり前の記憶や情報になるのと、その当時のことを今思い出して書くので
正確かどうかは怪しいです、、、。
ご了承ください。


これまで旅行したところ

 

国内→47都道府県


海外(トランジットなどはのぞく)

アジア、オセアニア→モンゴル・シンガポール・マレーシア・ベトナム・台湾
          スリランカニュージーランド・タイ・パプワニューギニア
          ブータンウズベキスタン・トルコ
          
ヨーロッパ→    ドイツ・クロアチア・イタリア・スペイン・ポーランド
          オーストリアポルトガル

アメリカ→     キューバ
アフリカ→     マダガスカル

 

一体すべて書き終わるのにどのくらいかかるのか、、、、
飽きたら全然違う記事を挟みつつ、すぐに思い出しやすい場所から書いていこうと思います!!!


では次回はつい先週行ってきたばかりのポーランド・ドイツから始めます。
うーーん、どんな風に書いていこうかなぁ。なやむ。


まちこし

 

ひさびさの投稿。

間があいてしまいました。
まちこしです。
あれだけブログ続けるとか言ってたくせに!!
さてさて、、、

間があいて久しぶりに前の投稿を見ると恥ずかしいもんですね、、、。
だいたいダイエットだったり新しい習慣が続かないのと同じで
久々にこういうブログを開けたりするときに腰がすごく重くなるってことがあると思うんですけど、まさに今もなんだか夏休みの途中になってる宿題に手を伸ばすようなそんなちょっと重たい感覚でした。
一度腰をあげてしまえばなんともないんだけどね。

これが毎日やってると習慣になってるのでもっと気楽なんですよね。
でもそこらへんまでが一番苦しいのかもなあ。
こういうの続けるコツって自分でハードルを高くしすぎないってのが一つのコツかも。

私はもともとは完璧主義なところがあって、プロセス見せたりすることには抵抗があるタイプだったんですが、そもそもドジだし そんな器用にテキパキこなせるタイプじゃないのにそんなだったので結構苦しかったんですが30代に入ってよいのか悪いのか
図々しくなってきました。

これからは自分の人生にもっと図々しくなっていこうと思います。
こういうブログも格好つけすぎると自分の首しめるんで、読んでいただいた方にも
くだらない、しょーもない、私をだしていきたいと思います。

 

ということで仕切り直したゾ!!


次回からは旅の投稿始まります。

まちこし